【べジタリアン啓発映画?】netflixで『Okja-オクジャ-』を観た感想
こんにちは、そら豆です。
今回は、netflixで気になっていた映画『Okja-オクジャ-』を観て感じたことをシェアします。
なぜ『Okja-オクジャ-』を観ようと思った?
理由が2つあります。
① ポン・ジュノ監督作品だから
ポン・ジュノ監督の映画『パラサイト 半地下の家族』は日本でもすでに有名ですよね。
第72回カンヌ国際映画祭ではパルム・ドールの受賞を果たし、さらに、第92回アカデミー賞では作品賞、監督賞、脚本賞、国際長編映画賞の最多4部門を受賞。
私も観ましたが、流れるようなストーリー展開の中で、スリラーもクスッするような笑いの要素も同時に入っている映画は初めてでした。ドキドキハラハラ、怖いけれども、先が気になって観ずにはいられない。
この『Okja-オクジャ-』も、ポン・ジュノ監督の作品だと知り、ぜひ観てみたいと思いました。
② 菜食主義(ベジタリアンやビーガン)との関連
私は、2020年5月頃から食生活を変え、Vegan(ビーガン)となりました。肉を始め、魚、卵や乳製品をとらない食事方法です。
きっかけは、これもnetflixのドキュメンタリー映画『cowspiracy』を観て、環境問題の大きな原因に工場型畜産業があり、また動物性食品が人の健康に悪影響を及ぼしていることを知ったためです。
そんな私は、SNSでもよくビーガンの方のアカウントをフォローしているのですが、ある人の投稿におススメのnetflix作品が紹介されていました。何作品かあったうちの一つが、この『Okja-オクジャ-』でした。
その時は、オクジャってなに?どう菜食と関係あるんだろう、と疑問でした。
『Okja-オクジャ-』のあらすじ
※ネタバレ注意※
『スーパーピッグ』オクジャと少女ミジャ
チリで発見されたという子ブタの『スーパーピッグ』を世界各国で育成するコンテストを大企業であるミランド社が開いた。 その1匹であるオクジャは、韓国の山中で少女ミジャとその祖父ヒボンらによって育てられていた。 オクジャはミジャとの間に信頼関係があるだけでなくかしこい。オクジャはコンテストの優勝者としてニューヨークにあるミランド本社に送られるはずであった。ヒボンはミジャにオクジャのために用意したお金で買った純金製の子豚を渡し、オクジャのことをあきらめるように諭す。
オクジャ奪還目指すがテロ組織に巻き込まれる
ミジャはオクジャを取り返すためにソウルに向かうが、オクジャはニューヨークへ向けてトラックで輸送される。命をかけてトラックを追いかけるミジャは、動物愛護団体のALFの協力もあり、オクジャを連れ出すことに成功する。ALFの計画、ミランダ社の遺伝子操作のための研究所の秘密をオクジャに盗撮装置をとりつけて暴くため、(ミジャは拒否したが)盗撮装置を取り付けられたオクジャはミランダ社に返されて予定通りニューヨークに移送された。
ニューヨークでのオクジャ奪還劇
ミランド社CEOはオクジャの一連の騒ぎで有名になったミジャを広告塔としてニューヨークに招くことにする。 オクジャの盗撮装置から送られてきたミランド社研究施設の映像には、遺伝子操作で生まれたたくさんの『スーパーピッグ』がいた。さらに、オクジャはそこで虐待され、強制的に性交させられる。
スーパーピッグコンテストが開催されるが、その場でALFはミランド社の研究所について映像を流して暴露するとともにコンテストを混乱に陥れる。ALFとミジャはオクジャを連れ戻すことに失敗し、一度は拘束されるが、研究所にいるオクジャの救出に向かう。 研究所に侵入したミジャが見たものは、屠畜し、解体する食肉加工の現場だった。オクジャを見つけ出したときは今にも殺される直前であったが、ミジャは持っていた金の豚と引き換えにオクジャを生きたまま買い取ることに成功する。研究所にいたスーパーピッグの子供もこっそり一緒に連れて故郷に帰り、今まで通りの生活にもどる。
感じたこと
まず、観ながら感じたことは、「人間はなんて身勝手な生き物だろう」ということです。
この人間の中には、もちろん私も含まれています。
動物や自然を搾取する私たち
ミジャが住んでいる韓国の里山は自然が豊かで、ミジャたちは川で魚を捕まえたり、自然の恵みを分けてもらうことで生きています。
しかし、それとは一転して、ミジャがオクジャを取り戻すために行くソウルやニューヨークでは自然がまったく見受けられません。代わりに立つのはビルや道路。そこに住む人々は、オクジャのことを害獣あるいは食材としてしか見ていません。
これらは、自然に感謝するものと自然を搾取するものとして対比されて描かれていると感じました。
文明の恩恵を受けている限り、私たちはどうあがいても後者なのです。
また、作品の中で、10年前にスーパーピッグを育て始めたおじいさんと、その孫ミジュは、2人とも同じ里山にある家に住んでいますが、育てている「スーパーピッグ」に対する価値観がまるで違います。
それは言葉の節々に表れていて、「オクジャ」(玉のように綺麗な子の意)と名前でしか呼ばないミジュに対して、おじいさんは「オクジャ」と呼んでいるときもありますが、お金の話が絡んでくると「その豚」と呼んでいます。
ミジュにとっては家族であるオクジャは、おじいさんにとっては、商品でしかないのです。
ミジュも私たちも、牧場にいる動物たちがどんな方法で育てられているのか知りません。
どんな工程で肉となっているのかも知らない人が多いと思います。
お肉は、冷蔵庫からくるものでも、スーパーからくるものでもなく、動物の命からくることを、どれだけの人が「本当に」理解しているのでしょう。
儲けのために動物を拉致し、監禁、虐待の果てに殺す。
これが人間であれば、複数の罪を問われ、問答無用で刑務所に送られ、場合によっては死刑です。
そして、その犯罪による利益を求め、支援したことで、消費者である私たちも罰を受けるでしょう。
でも、人々はこれを何十年も繰り返し行っていて、これは勢いを増すばかりです。
おいしいから、体力がつくから、もっと食べよう。
もっと安く、もっと生産的に肉をつくって売ろう。
動物だから、言葉が通じないからってやっていいことではないと思います。
同意が取れないなら、やらないことです。
動物だって私たち人間と同じように五感があり、考えがあり、個性があり、感情があります。
映画の中でも、オクジャとミジュは会話することができ、お互いを想い合い助け合う信頼関係で結ばれています。
実際に豚は、とても賢い動物だと言われています。
犬や猫、イルカは保護して可愛がり、豚や牛、鶏は虐待して搾取していいとはどういう基準でしょうか。
私たちが食べているお肉は、誰かが家族のように愛情を注ぎながら接していた動物の命かもしれません。
虐待さながらの方法で妊娠させられ、やっと出産した我が子さえ人間に連れ去られてしまった動物の命かもしれません。
「そんな風に言えば、そりゃあ可哀想に聞こえるよ。でも、やっぱり牛、豚、鶏などは食べるものとして教育されて生きてきたからしょうがない。」
と思う人もいるでしょう。
私は動物の命をいただくことに対して決して否定はしません。
食生活を変えるのは簡単ではないです。でも、意識を変えることは簡単にできると思います。
スーパーで買うお肉、食卓に調理されて出てくるお肉は、私たちに食べられるためではなく、それぞれ生きるために産まれてきた動物の命からきていることを意識すること。
真実をから目をそむけずに受け入れること。
自然と共生するために私たちがやるべきことだと思います。
『Okja-オクジャ-』は、私たちが知りながらも直視しないようにしていた「真実」を教えてくれる映画だと思います。
そして、疑うこともなく信じてきた「当たり前」を疑うこと、映画を観ながらオクジャが食用肉にならないことを願っている、私たちの本能に気がつかせてくれます。